おや鳥がひな鳥を育むように・・・Part2

これは・・・私の生家の門柱にあった看板。
『産卵能力研究所』祖父が、昭和2年ごろに始めた養鶏・孵卵ビジネスです。
最盛期には、敷地内に鶏舎4棟種鶏1500羽、ブロイラーの飼育1000羽、孵卵室3棟、孵卵器16000卵入り6台、10000卵入り1台がありました。
つまり・・・あ~ちゃんはひよこと共に生まれたのです。
私の父は、初生雛高等鑑別師として昭和30年代~40年代にかけて欧州に派遣され、あ~ちゃんが産声をあげた知らせ(電報)は北イタリアのセヴェソという街でピザを食べながら受け取りました。

グローバル社会となった現代では海外交流はとても身近になりましたが、当時の連絡方法は電報もしくは手紙。あ~ちゃんが6歳になる頃まで父は欧州に派遣されることがしばしばあり、両親は手紙に添えて『メッセージを録音したテープ』を交換しあっていました。

もちろん私も・・・マイクを一人占めし・・・パパへのメッセージや歌を録音しました。
もしかしたら・・・この時の体験が『アナウンサーになりたい』という私の夢の根っこだったのかも知れません。